7/12放送の天皇の料理番 最終話ではついに舞台は太平洋戦争終戦直後に入ります。

天皇の料理番として長年勤めてきた篤蔵でしたが、
日本が敗戦し、GHQに統治されたことで皇室そのものの存亡が危ぶまれる事態となります。

天皇の料理番 最終話ではこの時の篤蔵の大仕事がどうやらメインとなるようです。
そこで、終戦後の秋山徳蔵氏の活躍について史実から確認したいと思います。

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終戦後、秋山徳蔵氏がどうした!?

昭和20年7月に日本はポツダム宣言を受け入れ、敗戦国となります。
このことにより日本はマッカーサー元帥率いる
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に占領されることとなります。

GHQが行ったことは主に軍隊の解体、民主化、
そして東京裁判と呼ばれるいわゆる「戦争犯罪人」の断罪でした。

徳蔵氏はGHQのこの政策に皇室の存亡の危機を感じます。
確かにGHQから見れば民主化に皇室の存在は相応しくないと思われる可能性はあります。

ましては大日本帝国では天皇陛下は国家元首、まさに国の長です。
戦争責任を追求され、天皇陛下が生命の危険にさらされる可能性も否定できません。

そこで徳蔵氏はマッカーサー元帥に取り入り、
皇室に関する考えを好転してもらうことを考えます。

その方法はGHQの料理人だけではなく、ハウスキーパーさらにも洗濯屋など
身の回りの世話をしたようです。

もちろん、この間徳蔵氏は理不尽な扱いを受けたことが多々ありました。
それでも癇癪を爆発させなかったのは
やはり妻・俊子さんから託された鈴があったからのようです。

GHQと秋山徳蔵氏の色々なエピソード

秋山徳蔵氏とGHQのエピソードをまとめてみました。

秋山徳蔵氏のGHQの初めの料理外交

徳蔵氏がGHQへの料理外交の始まりは鴨猟でした。

徳蔵氏は宮内庁所有の越谷と新浜の鴨猟の猟場にGHQの高官を招待し、
捕った鴨を鉄板焼きにし、高官達に振る舞いました。

これにはアメリカ人には大好評だったようで、
しばらく申込が殺到していたとのことです。

徳蔵氏がウィットニー少尉の妻の無茶ぶりに対応!?

秋山徳蔵氏がウィットニー少尉に紹介した料理人。
しかし、ウィットニー少尉の妻と折り合いがつかず、直ぐにやめてしまいます。

そのため、ウィットニー少尉の妻は直ぐに代わりの料理人を用意するように言います。

もちろん、そんなに直ぐに用意できるわけではなく
徳蔵氏はそのことを伝えます。

しかし、ウィットニー少尉の妻は一切聞き入れず半分脅迫じみた物言いで
代わりの料理人を要求しました。

仕方なく、急遽代わりの料理人を探すことになり、
見つかるまでは大膳の料理人を派遣することで間をつなげました。

徳蔵氏が戦後賠償の扱い!?

GHQにとっては至れり尽くせりの存在の徳蔵氏。
当然、GHQの高官の中には本国に徳蔵氏を連れて帰りたいと思う人も出てきました。

そこで、「秋山徳蔵を我が国に欲しい」とGHQの高官が言うと、
宮内庁の職員が「戦後賠償としてならお渡しします」と答えました。

結局、徳蔵氏は無事(?)日本に残ることができました。

昭和天皇が戦争責任に問われなかったのは徳蔵氏の活躍だけではない!?

このように秋山徳蔵氏は皇室を守るために奔走していたわけですが、
実は昭和天皇の助命を願ったのは徳蔵氏だけではありませんでした。

実は日本中で昭和天皇の助命を願っており、
マッカーサー元帥の元には助命嘆願を求める数千通の手紙が届いたようです。

実はあまり知られていないことなのですが、
昭和天皇はマッカーサー元帥に面会した際、
他の国王や指導者のように命乞いをしませんでした。

それどころか自分は極刑になっても構わないので、
国民を助けてほしいと申し出たようです。

このことを国民が知っていたかどうかは別として
戦後も天皇を敬愛する国民の気持ちは変わりなかったわけです。

もちろん、戦勝国では天皇の戦争責任を問う声は挙がっていました。
しかし、こんな日本の状況でもし昭和天皇の戦争責任を追求したとすれば
暴動が起きかねないと考えたマッカーサー元帥は天皇に戦争責任を追求しませんでした。

結局、徳蔵氏の料理外交は1951年のサンフランシスコ平和条約まで続きました。
ということは5~6年近く続けていたということになります。

俊子さんの鈴があったにせよ、
徳蔵氏にとっては相当耐えに耐え忍んだ期間だったというわけですね。